黎明に沈む月
文久三年(1863年)、風冴ゆる京の町を眩い陽光が照らし出す。雲ひとつなく、屋敷の庭の凪いだ|水面には二つの影が映る。
ひとつは上背のある若い男、遊月という。歳は十と七、八くらいだろうか。黒髪に短髪、更に軍帽を被り全身を漆黒の洋装に身を包んだ風貌は、何とも時代に似つかわしくない。
それに対面しているのは、遊月の頭一つ分ほど小さい女だ。こちらも同じく、黒を基調とした洋装に身を包んでいる。同年程度と思われるが、瞼を伏せれば儚げでいて婀娜っぽい。少女というよりかは女に見える。
しかし、瞳を開いてみれば、あどけない可憐さが色濃く映り、少女に変わる。
いや、眼前の男を見上げる眼差しは乙女に近しい。
「楸。今夜、桜の間で──」
名を呼ばれた女は静かに頷く。遊月が楸の髪に白椿の花を挿してやれば、くすぐったそうに笑った。
これが二人の合図だ。
枯木星が瞬き、更待月が昇る頃に秘め事が始まる。
桜の間は屋敷の離れにあり、四畳半程度の書院造である。主に客人を招くために使われており、普段は空室だ。
障子からうっすらと漏れる灯影が揺らめく。
女は既に夢見心地の表情に蕩けている。せっかく唇に引いた紅も、舐めとられて落とされてしまった。
いや、落とされるためにわざわざ紅を差すのだ。
遊月は、楸の愛欲に燻る火の鎮め方を熟知している。その時の気分で、気を遣る寸前に前戯を止めることもあれば、立て続けに二度も三度も絶頂させて嬲ることもある。
さて、今日は前者だ。
既に楸の身体は、芯の奥が疼くような熱に火照っている。
男の背に回した指先が汗ばむ。もどかしさに腰を浮かせ、足を絡ませる。最後に遊月の首筋を甘噛みしてやれば、小さく喉が鳴る音が聞こえた。
「──ユウ」
縋るように男の名を呼ぶ女の声は、湿っぽく甘美だ。
切れ長の猫目が潤み、下がった目尻と眉を見ると、情炎に身を焦がされるかのように昂る。
己に組み敷かれるまま、従順な様を見ていると得も言われぬ征服感に満たされる。強烈な快感が脈を打つ。
互いに得意とする武術は違えど、自分と同じ組長という役儀を与えられた女だ。力こそ男には及ばずとも、業の技量は高い。真剣仕合をすれば、負けるのは己の方かもしれぬ。
いや、自分が女に負けることなど、あってはならない。
この世で最も許しがたい屈辱だ。
だが、今はその女を意のままに服従させることができる。
情けないほど弱弱しく、淫靡な姿を晒している様が、実に滑稽でたまらない。
心から笑いが込み上げる。
この優越感は癖になるのだ。
しかし、愛おしいと思う心にも偽りはない。
大切に慈しみ、守ってやりたいと庇護欲に心を動かされることもあれば、勁烈な嗜虐心に駆り立てられることもある。
実際に、首を絞めて嬲ったこともある。
気持ちがよかった。
遊月は分かっている。
かつて自分を虐げた母から受けた仕打ちを、悲しみと怒りの抑圧を憎悪に昇華させ、楸にぶつけることで焼け爛れた自尊心を補っていることを。
今宵も汚泥に塗れた愛を囁き、享楽に耽る。
自身の中指と薬指で楸の蜜壺を弄り、親指で陰梃を擦れば、忽ちくぐもった吐息が嬌声に変わる。
女の白くしなやかな身体が仰け反るのと同時に、部屋に差し込む月光が一際強く光り輝く。
それを見届けた後、舌を絡ませ合う深い接吻を合図に結合する。緩やかな強弱の満ち引きは、快楽の波となって押し寄せる。
「楸」
吐息交じりに名を呼ばれ、己の中で火照っていく遊月の顔を眺めていると、これまた得も言われぬ充足感に満たされる。
意識が朦朧としてきて、快楽の絶頂が近いことは自分でも分かる。
──この瞬間がたまらなく狂おしくて、やめられないのだ。
頭に真っ白い閃光が迸り、何も考えられなくなる刹那。
そう、これがいい。
この瞬間だけは、いつも背後に忍び寄る死の足音が遠ざかるからだ。
「遊月、私──」
無意識に口走っていた。
「死にたくない……」
それは、決して言ってはならぬ禁句だった。
我々の命は己の為に非ず、愛しい者の為にも非ず。
時代の礎となる為にこそある。
それを履き違えて、生を欲し、死を拒むことは罷り通らぬ。
もし、今の言葉を国の重鎮たる老人たちに聞かれていたならば、即刻首を刎ねられていただろう。
楸の地中深く埋もれていた魂の慟哭に、遊月は返す言葉など持ち合わせていなかった。
まだ何か言おうとしてわななく女の唇を、自身の唇で塞いだ。
我ながら卑怯な誤魔化し方だと思ったが、他に術を知らない。
刹那、左腕に彫られた罪人の刻印が痛む。それを打ち消すように楸の最深部を穿てば、悲鳴にも似た嬌声に扇情されるまま、精を放つ。
女はそれを零さぬよう奥へ奥へと追いやり、悦に浸っている。
どれほど拭っても消えぬ、穢れの残滓を遊月のもので塗り替えたいのだ。
しかし、楸の体内血中には、常に毒が循環している影響から、既に子壷の機能は有していない。生き方の代償とも言うべきか。
ただし、これらの事実が遊月の心に差し響くことはない。
時限仕掛けの命には、遠い未来の話など必要ないのだから。
──いつしか眠りに落ちてしまっていたのだろうか。
夢現の朧げな意識で瞳を開けると、眼前には遊月の寝顔が映り込む。
普段はあまり気に留めないが、確かに、よく見れば目鼻立ちの整った細面の色男だ。
町に出れば、すれ違う娘たちに熱い視線を投げかけられている。
しかし、本人は全く意に介さず、いつも鬱陶しそうに顔を顰めるだけだから、浮気や心変わりを疑ったことはなかった。
──ああ、それなのに。
今はどうしてか、黒く淀んだ靄が心に広がっていく。
もし、私が先に死んだら、貴方はどうするだろうか。
さっさと見切りをつけて、私ではない他の女と一緒になるのだろうか。
そうしている内に、私のことなど跡形もなく忘れてしまうのだろうか。
嫌だ、嫌だ。
死にたくない。
いや、もしかしたら、私が生きている間にも心が移ろい変わりゆくことだってある。
それは、死よりも耐え難い業火に身を焼き尽くされる悪夢かもしれない。
どうか、私だけを……。
それが叶わぬのなら、いっそ──。
そう思った刹那、我に返る。
まだ自分にも、これほどに浅ましい情が残っていたのか。
生への執着など、とうに手放した──はずだった。
貴方が私に教えてくれた喜びは、毒だ。
甘やかな言葉の麻酔が、私の心を混濁させ、狂わせる。
こんなにも私の心を醜く、炙り出す。
ふいに遊月が微かな呻き声と共に目を覚ました。
自分でも知らぬ内に、彼の背に爪を立てていたようだ。指先に血の滲む感触が伝わる。
「……楸。つらいのか?」
女の口元は弧を描いている。
しかし、笑顔とは裏腹に見開かれた瞳からは熱い雫が滴り落ちた。
もし、今ここで幼子のように声を枯らして泣くことができたなら。
こんなにもつらくて悲しくて悔しくて惨めったらしくて堪らないと、心の水底に沈めた叫びを吐露することができたなら。
馬鹿らしい。
泣き方など、とうに忘れた。
気付けば、東の空が東雲色に染まり始めていた。
もう夜明けが近い。
夜明けなど要らない。
私の空に遊ぶ月を連れ去ってしまう日輪など嫌いだ。
まるで他人事のように、ただ冴え冴えと私たちを照らし嘲笑っている、お前が恨めしい。
私は夜明け前の宵闇で、ただ貴方の腕に抱かれ、優しく守られていたい。
物言わぬ貝のように、ただ静かに海の底で揺蕩っていたい。
もし、貴方がいつか私に愛想を尽かし、去って行ってしまうのなら、貴方を海に沈めてしまいたい。
夜明けなど要らない。
私たちの命は時代の夜明けを築く為に必要であっても、夜明けが訪れる泰平の世には必要とされていないのだから。
国の内情を知り過ぎている我々は、憂いの種でしかない。
生かしておく道理もないだろう。
それでも、構わない。
──そう、思っていた。
庭先に飛来した鶯の笹鳴が耳に入り、意識を引き戻される。
もう夜が明けていた。鶯は、赤椿の枝葉をせわしなく歩き回っている。
ふとした拍子に、鶯の小さな足が椿を蹴った。
椿の首がもげて落ち逝く様を、ただ虚ろな瞳で眺める。
その姿に我が身を重ね、ただ静かに世界を閉じた。