雪花の雫
寂寞に覆われた京の町に、はらはらと雪が舞う。
すべての音色を許さ銀ぬ世界で、雪だけが音もなく積もり続ける。
町はずれにある茶屋の縁台に腰を掛けた女と、それに対面して立っている男の姿がある。
女の名は秋吉 楸(あきよし ひさぎ)、男の名を津田 誠春(つだ のぶはる)という。
楸の頭部と左腕には木綿布が巻かれており、僅かに鮮血が滲み出ている。
女の隣には、店の壁にもたれかかって煙管を吸う男がいる。我関せずと言わんばかりの面持ちで、眉ひとつ動かさない。
この男の名を冬瀬 霙(ふゆせ みぞれ)と呼ぶ。
津田の表情は怒気を帯び、僅かに肩を上げている。男の吐く息が凍気に晒され白息となり、やがて消える。
「…楸、これ以上のことは言わせないでくれ」
津田は己の手を力一杯に握りしめ、かすかに震えた手と声には当惑の色が交じっている。
「……私に構わないで。この隊服が死装束になることなど、最初から心得ています」
楸は顔を背けたまま、上辺だけの諦観を述べる。
「そうはいかない。お前を守るのは組頭としての役儀でもある」
「役儀……」
玲瓏たる藍玉の双眸を動かし、津田を一瞥する。
その眼差しには反発の色が伺える。両者の間に剣吞な雰囲気が立ち込めるが、その傍らにいる霙は依然として静観に徹している様子だ。
「お前が傷つく姿なんざ見たくないんだよ……分かってくれ」
津田の言葉を聞いた刹那、楸の瞳孔が僅かに見開かれる。取り乱した心を悟られぬよう、すぐに冷静を装い凛然と答える。
「私は組長です。傷つくことも死ぬことも怖くなどない」
「それでも、お前は女だろう。男の力でねじ伏せられれば、ひとたまりもないはずだ。もう無茶はしないでくれ」
──お前は女だろう。
間髪入れず被せられた一言に、女は己の矜持が揺らぎ、崩れそうになる感覚を覚えた。
楸は、かつて自分が女であるが故に暴力に晒され、尊厳の蹂躙を受けたことを激しく憎悪している。
如何にしても男の力には敵わない。それが例え覆えし難い男女の性差であるとしても、己の無力を嘆き、非力を恨んだ。
なればこそ、男に勝る強さを得るために命を削り、力の代用として毒の耐性をつけてきた。
毒学で得た知識を応用し、時には対象者を内側から破壊し死に至らしめる暗殺の道具として用いた。
またある時は、解毒薬の研究と開発に尽力し、幾度となく仲間たちの命を救ってきた。
そうして男たちと肩を並べ、周囲に認められるまでにはどれほど血を滲ませ、肉を削いできただろうか。
すべてを捧げ、ようやく掴み取った対等でいられる居場所なのだ。
組長としての役割をこなしている間だけは、女であることの引け目を感じずに許される。
しかし、それでも己の持つ能力のすべてを上回る相手が目の前にいる。
津田と比較されれば、武力・技力・知力において、何ひとつ優越するものがない。
男から発せられた一言で、まだ己は非力で守られるべき存在なのかと、今まで築き上げてきた全てに対する否定を受けた感覚に襲われる。言葉が鉛の弾丸となって心の水底に沈下する。
「あなたの助けなど要らない、欲しくもない」
──拒絶。
そうすることで、建前だけの強さを繕った。
「楸……!」
女の名を呼ぶ男の声には苛立ちが募る。
「恩義に報いて死ねるなら……それで鷲月様のお役に立てるなら、本望だわ。だから、助けなんて要らない」
「本気でそう思ってるのか」
「私がどうなろうと、その場で見殺しにすればいい!」
「いい加減にしろ!!馬鹿を言うんじゃねえ!!」
耳を劈くような男の怒号と共に、乾いた衝撃音が響く。津田が楸の頬が張り飛ばしたのだ。
その場が凍りつき、傍らに咲く赤椿の花が首を落とす。
楸は耳に響く衝撃と頬の痛みに言葉を発することも、動くことも出来ずに目を見開いたまま硬直している。
その様子を見て津田はすぐに我に帰った。
いくら感情が昂ったとはいえ、女の頬を叩き、一瞬でも恐怖を与え、萎縮させてしまったことを悔やんだ。
「……すまない、悪かった。だが、聞いてくれ──」
できるだけ優しく、温和な声色になるよう心を配り、女の緊張を解そうと試みる。
津田は壊れ物に触れるように楸の頬に手を伸ばしたが、女はその手から逃げるように、一言「ごめんなさい」と呟き、目を合わせることもなく足早に走り去る。その唇が震えていたのは寒さ故だろうか。
津田はすぐさま楸の背を追いかけようと一歩を踏み込んだが、横から鼻で嘲笑うかのような不快な声に気を取られて立ち止まった。
「……霙。てめえ、なに笑ってやがる」
津田は不愉快な憤りを隠そうともせず、剥き出しの殺気を放つ。
一方の霙は何を気に留めるでもなく、深く煙管を吸い込み、溜息をもらすかのように煙を吐き出す。
「きみは何も分かっていないようだな」
「なに……?」
針で刺すように挑発する霙の言葉に、津田の形相が一層険しくなる。
「きみのそういうところが、あの女を惨めにさせる」
言い終わるか否やの間で、霙は徐に歩き出す。その頭部には僅かに雪が積もり始めていた。
背後から津田の呼び止める乱暴な声が耳に響くが、霙は振り返ることもなく雪道に足跡を残していく。
男の足跡の隣には幾分か小さな女の足跡が見える。楸が残していったものだ。
ふと霙は何を思ったのか、楸の残した足跡を自身の足で踏みつけた。
その瞬間、男の白銀の髪に隠れた黄玉の左目が銀雪に照り、僅かに形を細めた。
全身を漆黒に統一された洋装に身を包む背丈の高い男、夏越 遊月(なごし ゆづき)が歩いている。腰には一本差し、右手には甘酒の入った猪口を持ち、左手は衣嚢(いのう/ポケット)に突っ込まれている。
ざんばらに切られた短い黒髪が、歩く度に揺れている。
月を映したような黄水晶の双眸が、前方から迫り来る人影を捉えた。
すぐにその姿が楸であることを確認すると、自らも女に向かい歩幅を広げる。
「よお、熊姫。雪まみれだな、ようやく冬眠からお目覚めか?」
意地の悪い笑みで挨拶代わりの軽口を叩く。
男はいつものように軽快な返しが発せられることを期待していた。
しかし、女はそれに応えず無遠慮に、頭突きを食らわすかのような勢いで男の胸に顔を埋めた。何の構えも取らずにいた男は突然の振動に反応が遅れ、持っていた猪口を落下させた。
「あー!オレの甘酒!何してんだ、この百貫──」
力士と言いかけたところで、口を噤んだ。顔を埋めてはいるが、その隙間から女の頬が腫れていることを捉えた。女の頬に跡をつけた相手にもおおよその察しがつく。遊月は浅く溜息をつき、右手で楸の頬を軽くつまんで遊ぶ。
「もしかして、ハルと何かあったのか?」
楸 は沈黙を保ったまま、男の外套(がいとう/コート)に深い皺を増やすことで肯定の意を示した。
「あいつはクソ生真面目で鈍いからなあ……まー、反りが合わねーこともあるよな」
女はまだ沈黙を破らないが、皺を作っていた両手を男の背に回した。遊月は楸が己に対して何を求めているのか理解したが、敢えてそれには応えずに反応を楽しむこととした。
「……意地悪。嫌い」
「あっそ。ハルにもそうやって言ってやりゃいいじゃねーか」
女の言葉が本心ではないことを理解している男は、遊ばせていた右手でそのまま頬を愛撫する。
「そんなこと……言えないわ」
「心劣りされるってか?いつまでもつまんねー意地張って、遠慮してっからこういうことになるんだろうが」
女は無反応だ。恐らく図星をつかれ言葉につまっているのだろうと察した遊月は、頬を愛撫していた右手を下へ滑らせ、女の臀部を軽く叩いた。楸の肩が僅かに跳ねる。
「ほれほれ、タマをぶら下げた熊がこんな人里をうろついてたら撃たれるぜ」
その言葉を合図に、男の背に回していた両手が解かれる。遊月は自身の右手で楸の左手を些か強引に掴み、外套の衣嚢へ突っ込んだ。女はされるがまま、抵抗する様子もなく引っ張られていく。道の脇に植えられた赤椿の花弁に舞い落ちた沫雪が溶け、雫となって滑り落ちた。
玉響、時雨心地の椿が揺らめく。
男は気付かぬふりをしていた。己の外套を濡らしたのが、雪の雫だけではないことを。