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冬に咲く徒花

  紅葉が雪を纏い、朝陽を反射して銀の燐光を帯びている。厳しい寒さが一晩をかけて静謐な雪景色を創り出し、秋の名残と見事に調和していた。梢の生命力は赤と黄色の色彩に現れ、雪の中に瞬いている。屏風にしか見ることのできないような見事な景観が、ある朝に突然、自然の力によって織り成されたのだ。人々は季節の移ろいに見惚れ、束の間に世の不穏を忘れたという。

 京には脱藩浪士が集い、刃傷沙汰が頻発していた。激論を飛ばしあい、天誅といったところで全てが学を備え、筋の通った思想を持つわけではない。浪士の多くはならず者に等しく、治安は乱れ、所司代、奉行所共に手が回らず、京都守護職を新設したほどに血なまぐさい時分であった。

 夜半。寒気に冴え凍る月輪の下を、数名の男が歩いている。書画会を名目とする密議を終えた帰りで、酒も入って高揚していた。幅の狭い通りなので、向かいから人がきた場合には、どちらかが脇へと避けて道を譲らねばならぬだろう。彼等は運が悪かった、正面に人影が現れたのだ。

「萩野屋庄三郎に相違あるまいか」

 

 人影が尋ねた。月光の淡く及ぶところ、輪郭からして洋装をしている。萩野屋が顔を上げた。夜道では相手を見分けることが難しく、目を凝らそうとしたのだろう。風が雲を押し流して月が蘇ったとき、萩野屋の首は惚けた表情のまま胴を離れていた。血の軌跡が弧を描き、首が軒の上へと転がる。頽れる萩野屋の後ろに続いていた仲間は驚きに声をあげかかったが、洋装の者はそれよりも早い。肩口より袈裟斬りを浴びせかけ、骨まで断つ。血泡を吐いて二人が倒れた。

 血払いをしたのち、刀を収めた男は桜花四季組、冬組組長冬瀬霙。霙の指示に従い、待機していた数名の隊士が現れて、遺体を改める。彼等の足元に薄らと残っていた雪は血を吸ってまだらに染まっていた。

 桜花隊は武蔵藩留守居役、鷲月秀満を総長に据え、時に暗殺を行う隠密集である。京下屋敷を拠点とし、中核を担う精鋭四名を四季組と呼ぶ。冬組組長の籍を埋める霙は、神速の使い手として名が通っていた。雪により足元が危ぶまれても、敵を逃したことは無い。

 霙の人生は剣術を離れて有り得ぬ、それほど深く刀と結びついている。見世物小屋の剣闘士奴隷として育ち、凄惨な環境は否応なしに彼の剣術を磨いた。濁世にあって閃く太刀筋の美しさが不思議な因果を繋ぎ、優れた剣客を求める鷲月の目を惹いたのだろう。霙は桜花隊に入隊し、冬瀬の姓を得た。

 霙は一風変った男だ。人格者と謳われる主君、鷲月に心酔することもなく、隊士とも馴れ合わない。無関心という刃で己と外界とを切り分けているかのようで、他者に関心を示さなかった。それがどうして鷲月に従い、組長格まで上り詰めたかといえば、何よりも真剣仕合にこそ血が昂ぶるからだ。暗殺といっても、不意をついて斬りつけないのは強敵と一戦交えることを期待するからで、鷲月の命令は霙に都合が良い。大義名分の元、お咎めなしで人斬りが出来るのだ。

 非番の時は屯所内で専ら寝て過ごすか、甘味処へ出かけていく。霙は鼻梁の通った美男で、白皙とあわせて繊細な造りは西洋人に近い。結った髪は色素が薄く、翻った毛先は銀の艶を流す。男と女の区別なく町人の目を惹く霙だが、彼が隣に立つのを許すのはひとりきり、赤毛の娘である。

 桜花四季組秋組組長、秋吉楸。霙はこの娘にだけは気を許しており、甘味を好むふたりということもあって、茶屋で団子やあんみつを楽しむこともすくなくない。

 手練れを集めている鷲月に選ばれたのだ、楸も尋常の者ではない。入隊後、まだ職名の無かった楸は、女だてらに隊士を打ち負かし、秋組組長の座を勝ち取った。

 経緯に対して実物はといえば身の丈五尺に満たぬ矮躯であり、男児と切り結べば容易く押し負ける。体格差を埋めるためならば、楸は刀以外にも暗器に毒、銃と何でも使った。彼女の場合、組長の維持は実力と共に執念の力による部分も大きい。

 非番が重なる日、或いは任務帰りの夜、二人は肌を合わせる。枕辺の行燈を頼りにした部屋で吐息を交えていると、古傷の痛む響きがあった。組み敷いた女はかつて陵辱を受け、搾取され抜いた傷物に違いない。語られず、問わず、肌に残らずとも、楸の顎が反らされ、腰が逃げを打つ際、快楽であろうと痛苦であろうと、仕草のうちに陵辱の過去が浮き出る。楸の傷を見た霙もまた、見世物小屋の時代に受けた性的暴力の傷が疼くのである。いわば行為によって最も忌まわしき深部が共鳴するのだが、霙はこの関係についても淡泊に捉え、同じ穴の狢と結論づけていた。しかし、やめどきがわからぬことは甚だ疑問であった。女は遊郭にもいるというのに、楸が甘えて求めるたび、突き放さずに抱いてしまう。

 普段なら夜明けが疎ましいといって夜を惜しむ楸が、今宵は珍しくも没頭しきれぬようで、堪りかねたような顔で霙の胸へと手を当てる。

 

「私と霙君がもしも兄妹だといったら、貴方は笑うかしら」

 

 逡巡を交え、躊躇いがちに楸が言った。霙は些かの動揺もなく、それがどうしたと返す。霙の冷静さは楸の話を疑念から真実に変える重みがあって、持ち出した娘のほうがたじろぐ。

 

「霙君は以前から承知だったの? 私が……子を産めない体だから、何も残らないから、だから何度も」

 

「興醒めだ。……つまらん」

 

 言い切った霙が体を離そうとすると、楸が慌てて縋り付く。血縁者かもしれないとの可能性は、実のところ霙にも予感があった。

 彼のほうではずっと早くに父が阿蘭陀商人で母が遊女であることを把握していた。馴染みで腕の良い研ぎ師の元へは様々な刀が預けられるが、名刀の逸話と共に世事の噂も複数集まる。霙と楸は特に容貌が優れることもあって、人の口端に上りやすい。研ぎ師の話を受けて、楸とは異父兄妹ではあるまいか、と霙は仄かに予感していた。

 

「離せ、鬱陶しい」

 

 胴に腕を回す娘に冷たく言い放っても、楸は細腕に力をこめるばかりで離れない。楸を組長たらしめる戦闘術は筋力によるものではないから、剣客たる霙に帯を解かれた楸は十六歳相応の非力さしか持ち合わせない。彼女は片腕を負傷していたが、力をこめてしがみつくせいで傷が開いたのだろう、包帯には血が滲みはじめている。

 傷を気遣って控える、という判断が無いのは完治を待っている間に新しい傷がつき、無傷でいられる時期が殆ど無いからだ。四季組の任は苛烈であり、阿芙蓉を鎮痛剤に用いてでも戦地へ臨む。

 

「私も気にしてないわ。今更だもの」

 

 言葉の割に思い切れていない声音の弱さで、楸は霙の胸に額を押しつける。行燈の光が細かく揺れて、楸の心情を訴えるかのようだ。この娘は組長に不向きである。心の襞が繊細すぎて、内実は気も弱い。

 それでも粉骨砕身の努力を惜しまず秋組組長を務めるのは、辛い俗世を生き抜いて、ようやく、そして唯一得ることのできた居場所が桜花隊だからだろう。楸は家族や仲間、絆を重視しているようだが、連帯意識の希薄な霙とて、退けと邪険にされず、安穏と昼寝の出来る環境を此処で初めて知ったのだ。

 奴隷の生活に戻る気はない。

 

「兄妹だとして、何がお前を迷わせる。法と倫理が、親がお前に何を与えた。そんなものは京にない。俺達こそが、よくよく知っていることだ」

 

 霙が嘆息して述べると、楸はうん、と一度頷いてから、怖々と霙を見上げる。

 

「私が妹だからと、霙君は嫌いにならない?」

 

「好いたこともない」

 

 素気ない霙に対し、私は好き、と拗ねたような顔で楸が言う。唇を合わせると娘は素直に睫毛を伏せた。愚かな女である。霙に応えてほしいと期待し、体を開きながらも愛情を受けることを諦めている。当人は気づいていないだろうが、こういうところが傷ましい。

 楸の起点は恐怖だ。死にたくないと死に物狂いで生きてきた癖に、隊服に身を包むと職名を与えてくれた鷲月様のために死ぬ覚悟、と啖呵を切る。霙は楸の背に腕を沿わせると、敷布の上に横たえさせた。一度は縋るほど動揺させたことを詫びるように、優しい手つきで。

 冬の寒さが一層厳しくなると、霙と楸は予期せぬ場で鼻血を流すようになった。鷲月から与えられている阿芙蓉の副作用である。積極的に暗殺の任務をこなす霙と楸は、四季組のなかでも特に使用頻度が高い。

 夜の任務を控えた日中、屯所内の一室で霙は身を横たえ、楸の膝に頭を預けていた。暖かな滴が頬に落下し、目を開けると頭上の楸が顔を押さえている。

 

「ごめんなさい。鼻血がでてしまって……汚いでしょ」

 

 霙は身を起こすと、懐紙を取り出して楸の鼻を押さえてやった。

 

「すぐ戻る。お前はこうしていろ」

 

 不安げな楸を残して、霙は障子の向こうへ消える。戻ってくると、湿らせた布を手に娘の傍へと片膝をついた。顔の血を拭えても、咄嗟に鼻を押さえた楸の手は血に濡れたままだ。指先から股まで霙が拭ってやる間にも、楸の指は震えている。この娘は膂力の差を補うため、毒薬についても造詣が深かったが、副作用を緩和することは出来なかったのだろう。霙と同じだけ阿芙蓉を乱用してしまえば、女の楸はそれだけ酷く衰弱する。

 

「霙くん、ありがとう。嬉しいわ、嬉しいけど、貴方……ふふ」

 

 楸が霙をみて笑う。首を捻っていると、楸が霙から手拭いを受け取って、彼の頬を拭った。楸の落とした一滴を拭い忘れていたようだ。

 

「軟弱と笑わずに聞いてほしいのだけれど、近頃は傷を負うことが怖くなくなったの」

 

 膝に置いた両手の指を絡み合わせて、そこへ視線を落としながら楸が言う。

 

「未だに兄妹がどんなものかはわからないけれど、自分の流した血が霙君と同じだと思うと、安心する。傷をみると心強くさえ思うの」

 

 霙はふん、と鼻を鳴らすのみで、再び楸の膝を枕にして横たわる。外の冷気を火鉢が退け、部屋は暖かい。体を休めていると優しい眠気に意識が引き寄せられていく。

 

「また鼻血が出ちゃうかも」

「拭え」

「汚いわよ」

「構わん」

 

 お前の血ならば、と頭の中で続いた言葉を霙は声に出さず、女の腹のほうへと寝返りを打つ。微睡みのなか、掛け茶屋で楸と並んで団子を食べていた折、道を駆ける子供がいたことが霙には思い出された。女児が転び、擦りむいた膝から流れた血を男児が袖で拭う。おそらくは兄妹だったのだろう。子供がふたり地べたに蹲っていても声をかける大人はなかったが、やがて兄に手を引かれて妹は立ち上がる。世間の冷たさに屈さず、彼等は手を繋いで走り去り、霙の視界から消えた。

 遙かに縁遠い光景と当時の霙は意に介さずにいたが、今となっては何か、むず痒いものが起こる。霙はその感覚が心地良いのか、気味悪いかも区別がつかず、唐突に起き上がると楸の着物の合わせ目を無理やりに割開く。男の無礼に楸は眉一つ潜めず、慎ましい微笑を漏らして、なされるがままに霙の体重を受け止めた。

 

「今夜、任務なの。……体力を残しておかなくちゃいけないから、あまり酷くしないで頂戴」

 

 行為こそ受け入れる姿勢だが、楸も霙も、組長としての役割を失念することは無い。霙は楸の前髪をあげると、額へと顔を寄せて鼻を鳴らした。不機嫌なものではなくて、肌の香りを確かめている。

 

「なあに? 猫みたい」

 

 彼等の部屋には掛軸が飾られているのだが、鷲月から好きに使えと徒に与えられた掛軸に、筆をとった楸が猫を描いたことがある。曰く霙が猫に似ているからだというのだが、絵の出来映えか、霙の恐るべき剣筋を畏怖してか、周囲からは化け猫と誹りを受けた。

 掛軸の傍で楸が笑い声をたてる。娘が心底愛でている化け猫はといえば、爪をたてないよう女の柔肌に触れ、首筋に舌を這わせており、彼の手によって解かれた楸の赤毛が畳に散った。赤の他、黄色と緑の変化を毛先へ向けて現わし、赤毛というよりは紅葉そのものを写し取ったかのような髪色をしている。

 敷布代わりに広げた着物の上で霙と楸はじゃれあい、指を絡ませ合う。以前に見られなかった睦み合いは、末端に血が行き届きづらくなり、分け合える体温が減ったからだ。共に永くはなかろう。短命を予期しながら死の気配と快楽を丹念に混ぜ合わせた。

 剣にのみ惹かれる霙が楸に気を許したのは、血の引力であろうか。彼すら知らぬ因果が意識の埒外で働き、両者を惹き合わせたのであろうか。このように一連の出来事を纏める者があったなら、霙は否定するだろう。彼は負傷した楸を情によって引き留めることはしなかったし、剣客としての任務より彼女を優先することもなかった。秋組組長秋吉楸の訃報を知らされたときも、あの女、遂に逝ったかと、それ以上に感じることはなかった。

 常に先陣を切って道を切り開く、それが楸の戦術であり、白刃に身を曝し、嵐の中へとがむしゃらに突進することでしか彼女は己の強さを証明できなかったのだ。なればこそ、娘の小さな背に漲る覇気と覚悟に秋組の隊士も鼓舞され、性別を超えて亡き組長を敬愛していたのだろう。

 

 無常の風は時を選ばずという。死地へ赴くからには、いつ果てたとて構わぬとの覚悟が肝心である。逃げるは恥、恥辱を受けたなら腹を切るのが武士の生き様。武士でなく浪士ですらこれを心得、切腹する。

 霙もまた、膝を折る時がきた。鷲月の下で思うがまま剣を振るい、血を浴びた末である。太刀筋、清浄にして神速と謳われた霙の手もまた、阿芙蓉の副作用に震えていた。麻薬で内側から身を破壊し、衰弱著しい体では脚裁きも衰える。遂に袈裟斬りを浴びてしまい、倒れたのだ。

 季節は冬。霙の体を受け止めたのは新雪であった。死の温度に身を浸す彼を中心として、血の花がゆっくりと雪の上に開花していく。半身を冷やし、手指の感覚を失って尚、霙の手は刀を握っている。だが、視界は呆として像が曖昧に溶け、雪の白に徐々に赤が混ざっていくと、共寝の際に枕元に流れていた楸の髪色が今、鮮やかに蘇ってきた。赤と緑と黄と、紅葉の移ろいを封じた髪が翻る。柔らかく霙の頭を受け止める雪の感触は女の膝に取って代わり、昼下がりに縁側で見上げた女の姿、小さな手が優しく霙の髪を梳き、微笑む声が耳に蘇った。

 お兄さん。

 一度も呼ばれたはずのない響き。どこまでも冷静な霙は幻覚だと断じた。  生前の楸は、終ぞ兄と呼ぶことはなかった。しかし、娘の態度や口ぶりからして、任務で傷を負うたび、血を噴き、死の恐怖を感じるたび、心の内で霙を呼んだのだろう。兄と呼べと促しこそしなかったが、あの娘が呼ばわるならば、どんな響きであろうと霙は振り返ってやったはずだ。

 普段は長い前髪に隠れている霙の双眸が、この時は露わとなっていた。彼の瞳は異色であり、右側は赤く、左は金。一本の樹より生じた紅葉の色彩を、楸と共に分け合ったかのような色を宿している。彼の長髪は乱れきっていたが、面持ちに苦悶はない。

 致命傷による判断力の低下か、或いは幻覚を呼ばわろうとしたか、霙の唇が震えた——楸。

 声として喉を越えず、最期の吐息が儚く冬に溶ける。

 霙と楸、彼等の縁者がこの場にいたならば、雪の上に咲いた徒花に二人の縁を思わずにいられなかったろう。傷を負えば、そこに貴方がいるのだと楸が笑った通りに。

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