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木漏れ日に眠る蝶

「おい、小娘。随分と上等なべべ着てるじゃねえか」

「へえ。よく見りゃ上玉だぜ」

男たちの下卑た銅鑼声が耳に障る。
人気のない京の町角で、秋吉 楸は眼前に立ちはだかる男たちの顔を一瞥する。
今日は非番のため、隊服姿ではなく女人の装いをしていた。紺色の染物に春夏秋冬の花々があしらわれた、付け下げの着物が雪膚によく映える。
緩やかな波を描く猫毛は腰まで伸びており、銀白色の髪帯で横髪の半分を後方に結い上げている。
毛先から頭部にかけては、もみじの葉を映したように、緑、黄、赤と鮮やかに色を変えている。

一方、男たちの身に纏う着物は日に焼け退色しており、所々ほつれている。総髪の天辺に置かれた髷は曲げられており、顎には無精髭を生やしている。尾羽打ち枯れた、だらしなく開けた着物から覗く肌は浅黒い。男たちから放たれる酒気の匂いが鼻を掠め、不快な気分が一層増す。

おおよそ品性の欠片も備わない、獣の如く欲望を剥き出しにした眼光が男たちの人品を暴く。
これらは人の道に悖る行為を愉悦とする、陋劣な輩であることを。

「恥を知りなさい。人としての矜持を持たぬものは、畜生にも劣る獣だ。それらをお忘れか」

楸は僅かに三日月眉を顰めたが、微動だにせず冷然とした声で言い放つ。
女の思いもよらぬ切り返しに、男たちは噴飯に堪えないといった様子で哄笑する。

「何を言い出すかと思えば、矜持だってよ」

「人としての生き方なんざ、とうに忘れてんだよ!」

痺れを切らした男が、手始めに楸の鼻柱を目がけて拳を振りかぶった。
しかし、男の拳は真逆の軌道を描く。
男は背後から何者かによって手首を掴まれ、腕を捻られたまま身体も反転させられていたのである。
瞬く間の出来事であった。

「よりにもよって、そこの熊姫に手ぇ出すとはな。命知らずにも程があるぜ」

「遊月……」

遊月と呼ばれた男は、他と比べても頭一つ分ほど飛び抜けた上背があり、逞しい体躯をしていた。
いとも容易く動きを封じられた男は、捻り上げられた腕の痛みに苦悶の表情を浮かべながら悪態をつく。
遊月はそれらを鼻先で笑い、それから何かを思い出したように口を開く。

「あ、お前。さっき、この女の鼻へし折ろうとしたよな?」

顔つきこそ涼やかだが、その双眸には殺気と怒気の色を湛えている。

「じゃ、お返し」

言い終わるか否かの間で、遊月は男の喉仏を豆状骨(手首の小指側にある出っ張りのある骨)で突き、続けざまに男の鼻柱を拳で砕いた。殺し技の一種である。
その一連の動作は、宛ら手練れの武芸者そのものであった。
反撃する間もなく地に崩れた男は、耐え難い激痛を声に出して散らそうと息を吸い込むが、上手く呼吸が整わない。
喉を突かれた衝撃で呼吸が乱れ、声が出せないのだ。息の出来ぬ苦しさに加え、鼻を砕かれた痛みは想像を絶するだろう。
万が一、男が叫び声を上げれば何事だと人が群がったやもしれぬ。それを面倒だと考えた故の戦法であった。
地に伏せた男の両眼は白目を向き、眦からは涙が流れている。鼻孔から溢れ出る血と、口腔から流れる涎が土に染みを広げていた。

「ちゃんと加減はしたぜ。けど、この程度の拳打で倒れちまうような三下の雑魚じゃ、そこにいる熊姫には指一本触れられないぜ」

遊月はもう一人の男を横目で睥睨し、「で?お前はどうする」と問う。
男の肩が跳ね上がる。とうに戦意など喪失していた男は、恐怖に歪んだ顔のまま腰を抜かしていた。
遊月はそれ以上の言葉をかけることもなく前方へ歩み寄り、楸の身体を己の肩に担ぎ上げた。
耳元で小さく頓狂な声が聞こえたが、遊月はそれに応じることはなく歩みを進める。
二人の間に会話はなかった。

やがて、町はずれの一軒茶屋に辿り着く。そこでようやく、遊月は野点傘(のだてがさ)の下に置かれた縁台に楸を下ろした。それは普段の遊月を知っている者からすれば、慮外と喫驚するほど丁寧な手つきであった。

「遊月。あの……ありがとう」

「それで?そんな身体で何をしに行ってたんだよ。手負いの熊さん?」

「!それは……」

少しばつが悪そうに目を逸らす楸を余所に、遊月は茶屋の主人に二人分の桜餅と京番茶を注文していた。これらは、遊月自身の好みに合わせたものではない。どちらも楸の好物を揃えたのだ。

「お前、この間ハルの奴に稽古つけてもらったんだってな」

遊月が楸の顔色を窺う様子はない。いちいち確かめずとも知っているからだ。

「あいつも随分と気にかけてたぜ。このところ、お前が鍛錬で無茶をしすぎだってな」

「……」

「昨日、ハルと組み手したとき、受け身が崩れて足を捻っただろ」

「気付いて……いたのね。でも、見ての通り歩けるから平気」

「その足袋の下は今ごろ、血の管が切れて痣になってるはずだぜ。歩く度にひどく痛むはずだ。その程度なら、オレにだって覚えはあるから分かる。それと、白粉で誤魔化してるつもりだろうが、火照ってるだろ」

俯く楸の顎を些か強引に掴み、自身の方へと向ける。掌越しには、熱く火照った楸の体温が伝わってくる。靭帯が損傷を受けたことで炎症し、患部から全身にかけて発熱していたのである。

「で?そこまでして、何をしたかったんだよ」

遊月の顔は笑ってもいないが、怒気が含まれているわけでもない。
特に咎めることもなく、戯れに楸の頬を揉みながら女の言葉を待っている。
それが良かったのだろう。楸は少し肩の力を抜き、徐に着物の裾から何かを取り出して見せた。

「ん?ぎやまん……蜻蛉玉か?この青い蝶は……。ああ、お前が飼ってる毒蝶か」

楸の手には、瑠璃色の蝶が閉じ込められた硝子玉が乗せられていた。陽の光を透かし、角度によって輝きを変える美しい硝子細工だ。その中心には朱色の紐が通されており、根付のような細工を施されている。根付とは、武士や町人たちが巾着や煙草入れ、印籠などを帯に吊るす際につけた滑り止めの留め具である。これを女人が使用するならば、帯に付ける装飾品として親しまれているだろう。


「この子、孵化したときから体が小さかったから……。長くはないだろうと思っていたのだけど、今朝死んでしまったの」

「なるほどな。それで、せめてもの弔いとしてぎやまんの玉にしたってわけか」

「こうしておけば、ずっと一緒にいられるでしょう?」

「へえ。綺麗だな、これ」

遊月は硝子玉を手に取り、陽の光に透かしながら幽邃な世界を眺める。


──もし、楸が死んだら、こうして閉じ込めてしまえばいいのか。
きっと美しい姿のまま、自分の手元に置いておけるのだろう。
そうか、それはいい。

僅かに顔を綻ばせた遊月を見て、楸はその笑みが蝶へ向けられた親愛の情と解釈し、喜びに破顔する。
それから、程なくして頼んでいた茶菓子が運ばれてくる。
二人は暫しの談笑を交えて満喫した後、遊月が楸の前で屈む。

「負ぶってやるから、さっさと乗れ」

「いいの?ありがとう……。でも、どうせなら横抱きがいいなあ」

「は?オレの骨が折れんだろうが」

「だ、だって……おんぶだと足を広げなきゃいけないから……。着物だし、はしたないでしょう?」

「はしたないだあ?何を今更」

──足なんざ、いつもおっぴろげてるくせに。
思わず、閨で見せる楸の淫靡な嬌姿が瞼に浮かび、緩む口元を手を覆った。

「ね、ね!いいでしょう?」

「ま、後で面白いもん見れるだろうしな。良しとしといてやる」

遊月はまず、自身の右手で楸の上半身を支え、左手を両膝の下に差し入れ抱き上げた。
それから、楸は遊月の首に手を回して密着し、体の重心を預けた。こうした方が、相手への負担が少ないからだ。
安定した足取りで歩を進める遊月に、楸が話しかける。

「ねえ、さっき言ってた面白いものって?」

「吞気だなあ。お前がそんな身体で何も言わずに屋敷を抜けたってんで、ハルの奴がお冠。鬼の形相だったぜ。帰ったら、こってり絞られるんじゃねーの」

「え!そんな、どうしよう。まさか、津田くんに気付かれていたなんて。もしかして、遊月もそれで追ってきてくれたの?」

「そりゃな。ハルが気付いて、オレが気付かねーわけないだろうが。もし、これが男との逢引だったら殺してやろうかと思ってたけど」

「そんなわけないのに」

二人は暖かな春陽が降り注ぐ川辺の道を抜け、篠竹がささめく閑静な路地を歩む。
やがて見えてくるのは、生垣に囲まれた大名屋敷だ。武蔵百万石を治める、武蔵松平家の下屋敷である。
入母屋造りの威風堂々たる屋根、左右には唐破風の番所を構え、格調高い威厳と風格を纏わせている。
重厚な門扉の両端には二人の門番が立ち並び、その間には遠くからでも分かるほど殺気立った仁王立ち姿の男が見える。

「ああ、どうしよう。津田くんが待ち構えてるわ」

「なにあれ、修羅像?地獄の門番みてーだな」

「他人事(ひとごと)みたいに笑ってないで。ね、遊月も一緒に来てよう」

「やだね。ハルのことは自分で何とかしてこいよ」

縋る眼差しで訴えかける楸を軽く受け流し、そのまま歩みを進める。
津田の眼前に差し掛かると、怒気を漲らせた鋭い眼光が肌を刺し、楸の身体は恐怖と緊張に強張る。

「はい。熊姫様のおなーり」

「遊月、ご苦労だったな。お前は下がっていい」

津田は遊月に軽く労いの言葉をかけると、隙を与えず楸の双眸を捉えた。

「楸!お前には、言いたいことが山ほどある。が、その前に手当てをしろ。医者の手配りはしてある。そいつが済んだら、すぐに俺の部屋に来い。いいか?すぐにだ。逃げるなよ」

「う……。は、はい」

有無を言わせぬ津田の威圧に委縮し、楸は頷く他なかった。
両者の間には蟠りの擦れる風が揺れるが、津田はそれ以上の言葉をかけることもなく、その場を後にした。

 

それから、楸はすぐに医者の手当てを受け、津田の指示通りに部屋へ向かう。
回り廊下を進む足取りは重く、小さな溜め息が零れる。ふと右手の庭へ視線を移すと、千紫万紅の花々が眼前に広がり、思わず歩みを止めた。藤の花香が鼻を掠め、幾らか気分が安らぐ。しかし、後方より視線の気配を察し、振り返った。
すると、そこには廊下の角から縦に重なるようにして、半分だけ顔を覗かせている二人の男がいた。
遊月と霙だ。二人は何も、これから楸の身に及ぶであろう不運を案じているわけではない。

むしろ、その逆である。
まず、普段の津田であれば、これほど楸に対して怒りを露わにすることはない。
何故なら津田は楸に懸想しており、他とは比にならないほど露骨な贔屓をしているからだ。
その惚れ込みようは常軌を逸しているとも言えるが、一方で遊月や霙たちは理不尽な叱責を受けたり、巻き添えを食らうことが多い。
日頃の鬱憤もあるのだろう。
今回は怒りの矛先が自分ではなく、楸であることが愉快でたまらない。

これから女の身に落ちる雷撃を嘲笑うかのように、枝葉の隙間を陽光が燦燦と降り注ぎ、木漏れ日が差していた。

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